死に備えるチベット仏教の教え

2021年12月7日

私たちの一番の不安や心配の原因は、死ぬことではないでしょうか。私たちは死にどのように備えていけばよいのでしょうか。チベットの宗教指導者であるダライ・ラマ14世 先生に伺います。

死は必ずやってきますが、いつ訪れるかはわかりません。

つきつめて考えると、何が次にくるか、明日なのか、死なのか、私たちは知らないのです。

老人が先に逝き、若者があとに残るとは限りません。私たちが取ることのできる、最も現実的な態度は、最善を望みながら最悪に備えるというものです、。もし最悪の事態にならなければ、万事めでたしですが、万一そういう事態になっても、不意を打たれずにすみます。これは、仏教の修行にもあてはまります。最悪にそなえるにこしたことはありません。なぜなら、自分がいつ死ぬかはだれにもわからないのですから。

私たちは毎日、ニュースで人の死を知ったり、友人やほんの顔見見知りの人や親戚の死を耳にしたりします。ときにはその死を悼み、ときには喜ばんばかりになったりもしますが、それでもどういうわけか、わが身に同じことが起こったりはしないと思い込んでいます。自分は無常とは無縁だと考え、いつか時間ができるだろうと思って、心の修行を先送りしてしまいます。そのため、やがて最期が来たるべくして来たときには、後悔の念だけが残ります。ですから、私たちは、どんなにすぐ死がやってきても準備ができているように、今この瞬間から修行に取りかからなければいけません。

死の時がきたら、何をもってしても、それを防ぐことはできません。どんなに優れた体を持っていても、どんなに病気に強くても、死は必ず訪れます。

たまにつまらぬ世俗的な事柄がうまくいかなくても、どうということはありませんが、人間に生まれついたことで得られたこの貴重な機会を棒に振ってしまえば、先々まで自分をおとしめることになります。私たちは心を鍛え、たとえ1か月でも、いや1日でも人生を無駄にしないようにし、死の時に備えるべきです。

だれも死を避けられないこと、死がいつくるか分からないことをじっくり考えると、人は未来に備えるあらゆる努力をするようになります。今生での成功や営みには、本質的な価値も重要性もないことに気づきます。すると、自分や他者の先々の利益のためにつくすことの方がはるかに重要に思えてきて、その認識に従って人生を送るようになります。いずれすべてをあとに残して逝かなければならないのですから、今すべてを捨ててもかまわないではありませんか。

瞑想と悟り―チベット仏教の教え