幸福論

私たちは幸せになりたい、といつも自分の幸せを求めています。でも、この世界の「幸せ」の概念とは、人によってそれぞれ異なるように思えます。では、いったい、本当の幸せとはどんな状態のことをいうのでしょうか。ヨーガ行者のシュリ―・エム先生に伺います。

人間が幸福と呼んでいるものは、2つの悲しみの間に挟まれた、短い休憩時間であるにすぎません。

一つの悲しみが消え、次の悲しみが現れる前に、しばらくは幸福であると感じているだけなのです。

自分の心を観察してみれば、次のような繰り返しの過程があるのがわかるはずです。

今日はあるものを欲しがり、そのために努力をして、手に入れた後、しばらく努力をしなくてよい間は幸せになっている。しかし、何かを得るために努力をしていない状態もすぐに終わり、手に入れたものに満足しなくなったとき、また他の何かを求めて始めてしまう。

欲望、心の動き、活動が生まれる前の期間を、私たちは幸福とよんでいるのです。

そうして次のものを求め、得られたあとにはしばらく満足があります。この満足も思考であるということが、心を観察してみればわかります。

何かを達成した満足感と心の落ち着きはしばらく続きます。幸福感がそこにはあります。それから幸福を邪魔する他の何かが頭をもたげます。同じように、また達成のために努力をはじめ、達成した後に幸福になります。

この幸福とはいったい何を意味しているのでしょうか。

幸福とは心が忙しく働いていない状態のことです。

何かが達成された後、心はしばらく休むことができます。

何かを得ようとする努力が始まったとき、心は再び落ち着きを無くします。

あなたが何かを得たか失ったかにかかわらず、常に心が休まった状態に保つための方法があるとしたらどうでしょう?

これが幸福の源ではないでしょうか?

このことが理論的にだけではなく本当に理解されたときに、特別な努力や何かをすることなく、決して変わらない平安を心にもたらすことができるのです。

オン・メディテーションー現代を生きるヨーギーの瞑想問答: Finding Infinite Bliss and Power Within

集中状態を全く気を散らすことなく、長い間保てるようになると、瞑想していることさえ忘れるような意識の状態が経験されます。これが瞑想です。この状態では意識を集中している対象、瞑想している行為者、瞑想の過程がすべて一体となります。この状態を経験すると、瞑想に関する様々な定義は、ただの段階、技術に過ぎないことがわかるようになります。追い求めるものもなく、手に入れるものもありません。ただそこに「ある」という状態になり、すべての動きが止まります。本を読んでいるだけではわかりません。実践の継続が一番大事です。長い間、継続的に修練しなければなりません。瞑想を続けていくと、ある段階において素晴らしい体験が得られます。あふれるような至福が常にあなたの内側に流れるようになるのです。この至福は一度得られれば、常にあなたと共にあり続けます。

つまるところ、なぜ私たちは瞑想をするのでしょう?

全ての存在が神の顕れだという仮定のもと、私たちは瞑想するのです。私たちは仮説から実験へと移り、それから実験の成果を試します。この実験が失敗すれば仮説は間違っていたことになります。瞑想においても、まず大前提として、全ての存在が神の顕れなのだという仮定から、私たちは検証をはじめます。

ですので、瞑想や魂の修養の目的は、この事実を深い内面の体験を通して知り、全てのものにある神聖なる光に触れられるようになることです。

この仮定が正しいとするならば、私たち自身の中に神の顕れを見つけられたとき、それは他の人達の中にも同じように存在していると理解されるようになります。自分と相手の中に同じ本質を発見することで、私たちは自然に慈愛の心をもって互いに接するようになります。誰一人として本質的に違う人はいないのです。外側の違いは確かにありますが、深い内面においては誰もが同じなのです。

瞑想における進歩、つまり、内面の神聖なる光に進むにつれて、すべてが一つであるのだという理解に私たちは至るようになります。この宇宙は一つであって、全ての存在は神の顕れなのだということが、体験を通してわかるようになるのです。瞑想で体験されるのはまさにこういうことです。